A Personal Computer for Children of All Ages
アラン・ケイによる1972年の論文。
https://www.mprove.de/visionreality/media/kay72.html
https://swikis.ddo.jp/abee/74 (日本語)
「パーソナル」というのはそのユーザによって所有され(TVよりも高価ではない必要があります)、持ち運びできる(私にとってはユーザが簡単にそのデバイスとその他のものを同時に持ち歩くことができることを意味します)ということを意味します。
アラン・ケイは、コンピュータを子供の知性の発達のためのパートナーだと考えていた。発生的認識論の章で、子供の知能の発達について、ジャン・ピアジェの以下のような見解を「コンピュータサイエンティストにとって魅力的だ」としている。
一つめは、特に年端の行かない子供に置いては、知識は一連の操作モデルとして獲得され、それぞれのモデルは幾分場当たり的で、他のモデルと論理的に一貫している必要はないというものです。(それらは本質的に論理的公理や述語、定理などではなく、アルゴリズムやストラテジと呼ぶべきものです。)論理が使用されるようになるのは発達段階のずっと後半で、その段階でも論理を超えたストラテジが取られ続けます。
二つめの考えは、発達が(文化的な環境からは独立しているように見える)一連の段階に沿って進むというもので、それぞれの段階は前段階を土台として構築されますが、認識や一般化、因果関係の予測などの能力で大きな違いが見られます。それぞれの段階に達する年齢は子供ごとに大きく違いがあるものの、ある段階がその前段階にはっきり依存しているという点は変わらないようです。またもう一点、言語は思考の女王ではなくむしろ侍女であり、ピアジェやその他の人たちが見つけた証拠によると、そのような思考は言語に依らない映像的なものであるらしいということも後で重要になってきます。
ピアジェの知能の発達段階説は「コンピュータが子供の認識論を表現するのにほぼ理想的なメディアであると信じるに足る、非常に説得力のある根拠」となった。おそらく、GUIがより前段階の発達段階(具体的操作期、ジェローム・ブルーナーの言う「映像的」段階)に対応し、GUIを構造化しているテキストによるプログラミングが次の発達段階(形式的操作期、ブルーナーの言う「記号的」段階)として考えられたのではないだろうか。
「プロセッサと記憶装置」では、Dynabookに利用される言語のデザインについて論じられており、おそらくオブジェクト指向のデザイン(およびその実現形態としてのSmalltalk)についてのかなり初期の文献だろう。
アラン・ケイの『ダイナブック構想』の論文をNotebookLMに読ませてみた https://www.youtube.com/watch?v=ZMNKQMKlnBw
サムネは ChatGPT に作ってもらったんですが、よく見るとひどいですね^^;